2026年3月11日水曜日

私の歩んできた道、そして君たちに伝えたいこと

私の歩んできた道、そして君たちに伝えたいこと - 学習コーチ 竹下伸吾

15歳、「勘違い」から始まった。

私は青雲高校2回生、150人中140番前後という成績で合格しました。受験倍率は1倍の頃です。入学前課題の赤チャートを真面目に勉強しただけで、直後の実力試験は50番に。「自分は数学ができる!」という高1の春の勘違い。しかし、この根拠のない自信が私の進路を方向づけました。

25歳、「出会ったことからしか選べない」

65歳になり、当時の選択が人生にどう影響したかがよく見えます。同級生には30名以上の医師、数名の大学教授がおり、学年同窓会には平戸・雲仙の市長も顔を出します。数英物化で学年30番位にいた私ですが、当時の私の世界は狭かった。

教員になり24、5歳の頃、九州大学への引率で目にしたキャンパスの規模に圧倒されました。その頃、九州芸術工科大に「音響設計」という学科があることを知ります。大学時代、POPCON九州代表としてつま恋本選会出場、NBCラジオで曲作りのアルバイトするなど音楽ざんまいだった私が、もし高校時代に「芸術工学・音響設計」という存在を知っていたら、浪人してでもここを目指したでしょう。

出会いの順番が替わっていれば、もっといろんな人の生き方を知っていれば、別の「自分の活かし方」もあったかもしれない。知らないことには出会えない。出会ったことからしか選べない。でも、この歳になると思います、「それが人生、人の生き様」だと。

48歳、父としての決断

40代後半、長女が高3になり自問しました。「私はいつまで同じ数学を教え続けるのか」と。私自身に外の世界との出会いが足りなかった。だから、自分の子供たちには広い世界を見せたかった。

娘の早稲田大進学の学費の確保するために教員を退職、退職金を充てました。48歳、実家の石油小売を手伝いながら3カ所で塾を開きました。リーマンショックでガソリンは高騰、昼夜なく働く日々。副業「二足のわらじ」を前提の退職です。後悔などしている暇はありませんでした。

50歳、命の時間を意識する

東日本大震災の年、咽頭癌ステージ4の告知を受けました。手術を経て、余命を考え、塾業に専念し久山台1教室に絞りました。

65歳、「勉強は武器になる」と伝えたい

今の私は、自分の好きなことや面白いと思うことを、すべて塾の指導に盛り込んでいます。写真撮影も塾のホームページも私にとっては「仕事」兼 「自己表現」です。

急速に進化するAIは、私のような素人の「やりたい」を次々と叶えてくれる。こんな刺激的な時代を生きる子供たちに、「好きなことで食っていける武器として、勉強を使いなさい」と伝えることが私の仕事、役割だと思っています。

塾業は、私の「一人部活」です。音楽、写真、数学、建築への私の興味・関心は、創造的であるという一点において、すべて塾の仕事に繋がりました。家業のために学んだ「液化石油ガス設備士」の物理・化学、そして「複式簿記」の数学的な美学。それらを乗り越えられたのは、中学高校で学んだ基礎素養があったからです。
勉強したことは、一分一厘も無駄になりませんでした。

苦手でもいい。ただ「やり抜く習慣」をつけてください。「部活」のように何度も繰り返し、ようやく一回「できた!」という経験を積み上げてください。その小さな成功体験の反復こそが、君の人生に生きがいをもたらすと断言します。

勉強を通して「未来の自分」へ向かう皆さんの姿は、私の希望であり喜びです。そのために、私自身が挑戦し続ける実践者でありたい。

君の世間を広げてくれる「学校」へ進みなさい。人並みより少しだけ得意なことを複数持ち、それを掛け合わせて活かしなさい。他人を尊重し協働しなさい。
これらを心がければ、人生は何をやっても楽しいはず。

私は高校で選んだ進路で、50年間生きてきました。君も同じ、中学・高校で出会った進路でこれからの50年、60年の生活の糧を得ます。その大切な一歩を、悔いなく踏み出してほしいと願っています。